2012年11月3日

知覧・特攻隊の残像(2)

 

 鹿児島県・知覧町にある特攻平和会館には、太平洋戦争末期に知覧基地から出撃した特攻隊員たちの、最後の手紙が多数展示されている。彼らの多くが、十分な訓練も受けていない、20歳未満の若者たちだった。

 軍による厳しい情報統制のために、若者たちは翌日特攻隊員として死出の旅に飛び立つことを、事前に両親に伝えることを許されなかった。つまり親たちは、息子が太平洋の藻屑となった後に、遺品とともに最後の手紙を受け取ったのである。

 資料館では、知覧から出撃した特攻隊員についてのドキュメンタリー映画が上映されているが、多くの参観者が流れる涙をぬぐっていた。知覧では、道路に沿って無数の石灯籠が立てられている。戦後人々が特攻隊員の慰霊のために寄進したものだ。その数は「散華」したパイロット1036人の数をすでに超えている。 

 航空機による特攻を始めたのは、海軍だった。1944年に大西瀧治郎中将が第一航空艦隊司令長官に着任し、フィリピン沖海戦に初めて特攻隊を出撃させている。知覧の資料館には、特攻に使われたとの同型の戦闘機が展示されている。

 海軍が運動性の良い零戦を使ったのに対し、陸軍の航空兵は97式戦闘機や隼、疾風、飛燕など性能が劣る旧型機に250キロ爆弾を搭載して、戦場に送り込まれた。敵艦に体当たりする特攻隊員には、確実な死が待つ。若い航空兵たちは、死の恐怖に身を苛まれたに違いない。

 彼らは肉親宛ての手紙には、「笑って征きます」とか「必ず敵の空母を沈めます」と勇ましい言葉を書いている。しかし出撃が決まったパイロットの中には、死の恐怖のために、眠れぬ夜を過ごす者、恐ろしさのために腰が抜けてしまい、整備兵の助けを借りて戦闘機に乗り込む者もいた。また、妻が滑走路に飛び出して夫の出撃を妨害したために、夫が生き残った例もある。夫は「生き恥をかかせた」と妻に殴るけるの暴行を加えたというが、結局再び出撃する前に終戦となり、戦後は仲良く暮らしたそうだ。もちろん知覧の資料館では、こうした「不名誉」な話は紹介されていない。(続く)

 

(文と絵・ミュンヘン在住 熊谷 徹)筆者ホームページ: http://www.tkumagai.de